実行していたものを言語化できてすっきり「「自由」はいかに可能か」苫野一徳 NHK出版
結論から言うと、読んでよかったのです。自分の意識をあるところに向けて考えるきっかけになったから。
「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)
手に取るきっかけ
哲学本をいくつか読む中で、自分の意識、それから行動が変わっていくことで人から「自由だ」といわれるようになりました。
たしかに、自分でも自由に行動が以前よりもできるようになったと感じています。その「感じ」を言語として定義するとどうなるのかしらん?
と思って手に取ったのです。
著者の苫野一徳さんは1980年生まれの哲学・教育を専門とする大学の講師。
初の哲学書になる本書で「自由」の定義、「自由」の”本質”に迫っていきます。
自分のヒントになることばがちらほら
それはまさに、「どのように生きればいいのか分からない」という苦しみだ。「無規定性の苦しみ」、それは、「何をやってもいい」「何をやっても自由だ」という「無規定性」の中で、自らの生き方に迷い苦しむことなのだ。P6
確かにそう。歴史的にみて、自由を享受できるはずの現代でなにが困っちゃうかというと、これだ。これに困っている人が居るということは、自分の意志が重要になる。
かつてルソーは、不幸の本質は「欲望」と「能力」の不均衡にあるといった。「欲望」に「能力」が追いつかない、そこに不幸の、そしてまた不自由の本質がある。ルソーはそう鋭く洞察した。P21
fit&gapといえば簡単だけど。自分がどれだけの欲望を抱いているのか。それに能う能力が自らにあるのか。まずはこれを自分の中で意識することが大事だと思う。
この本では、その不幸を変える方法として欲望を変える、能力を変える、といった話が出ていた。
これはアラン「幸福論」を読んで実践したことと重なる。
自分がしたい事、[現状ー未来]から一旦視線をずらし、自分がしたこと。自分の今の環境を[過去-現状]という視点で確認し、それを認める。
自分の能力によって、欲望が実現できている、と実感すること、それが上記のルソーの定義から考えると幸福の本質になる、となりますね。
なるほど。やっぱりいいわよ、幸福論。
この本を読んで東海テレビの昼ドラを思い出す
哲学書読んで何言ってるんだ、というはなしですけども、思い出していたの。
なぜならこの本、同じ話がくりかえしくりかえし出てくる。
東海テレビの昼ドラも、13:55には再春館製薬のCMが入って、明日の予告と提供テロップ。
それで次の日はまた前日の復習とばかりにダイジェストありーので、番組。
これを1週間録って週末まとめ見している気分になったんです。
ここまで繰り返されると、思考が進まないというか、考えの妨げになるくらい。
いかに可能かが弱い
前半とにかく繰り返し繰り返し
「自由」の本質は特定の状態にではなく、わたしたちの”感度”にあるのだ。繰り返し述べて着たように、「諸規定性における選択・決定可能性」の”感度”、これこそが「自由」の本質なのだ。P102
とい言われます。そうなるとこちらとしてはその”感度”をいかにして高めるか、が自由を可能にするカギになるのです。そのヒントがほしい。
それが読み終わって、「あれ、弱い・・・どこにあったの!?」状態だったのです。
今調べてみると、それが第Ⅱ部第五章にあたるのですね。30ページくらいでさらっと感じてしまいます。
だってその前150ページかけてひたすらくりかえしくりかえし定義について語っていたから。
まぁよくよく考えると、それは前述した、アランの幸福論を読んで自分なりに行動していたので、しっくりきてするーっと読めてしまったからなのかもしれない。
第六章に関してはテーマ的に個人がどうこう、よりも社会がテーマのため私の目的とそぐわず。
次の読みたい本のヒントにも。
そんな感じで消化不良ではありますが、自分のなかで収穫があったし、次の読みたい本も見つかったので、読んでよかったです。
フッサールの自分の確信こそが思考の始発点、という部分に興味を抱く。
ラッセル幸福論 (岩波文庫)
こちらの幸福論も読んでみようではないか。
エミール〈上〉 (岩波文庫)
読もうよもうと思って読めてないので、また意識。
人間的自由の条件
この本が書かれるきっかけの本、とあとがきに書かれていたので。図らずも現象学入門と同じ著者。興味。
5月5日読了。
ヒロセマリでした。
参考記事
カズレーザーの幸福論が気になった方へ 幸福を選択するための本